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松竹祠跡
1843年(憲宗9)に、鄭蘊の節義を松の木と竹にたとえて松竹祠跡を建立し、彼の魂を称えた。
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済州秋史館の横にある道に沿って本格的な秋史流配道が始まる。その昔、「マグンゴル」と呼ばれたこの辺りは流配された桐渓・鄭蘊が住んだ所である。鄭蘊は光海君の腹違い弟である永昌大君を殺した者を処罰しなければならないという上訴のため1614年、大静に流配された。彼はここにいた10年間、本を多く読んだので大静県監が彼のために書斎を建ててくれるほどであった。それから200年後、大静に流配されてきた秋史は鄭蘊について良く知っていた。それで1842年、秋史の申し出で鄭蘊の遺墟碑が立てられ、翌年には彼を称える松竹祠もつくられた。松竹祠の扁額は秋史が書いたと伝わる。後に松竹祠は松竹書院に格上げされたといわれるが今はその跡は見つからない。また、ここにあった遺墟碑も他の所に移されて基壇石だけが石垣の一部分として残っている。