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『新増東国興地勝覧 済州牧 官房組(関防條)』で別防城について「別防城は石で積み上げ、まわりが2,390尺、高さは7尺である。
正徳庚午、すなわち中宗5年(1510)に張琳牧使がこの地が牛島で倭船が近づける所であるため、
城を築き金寧防護所をこちらに移して別房と名付けた」と書いており、金尚憲の『南槎録』には「別防城は東西南に三門があり、
城の中には井があるが味が塩辛い。昔、地名は下道衣灘里であった」といった。
また『耽羅誌 済州牧防護所條』には「北城に大變廳があり、中央には客舎、別倉、軍器橋がある」と書かれている。
朴天衡は書啓で「東と北が海に面しており、城の中は禾北と朝天に比べて少し広く、
東・西南に三つの門と城の中に二つの井があるが浦口の空間が大変狭く尖っている石の端が槍のように鋭いため船が停泊できない。
松明を備えて警報することもよさそうであり、城を築いて防御するにはふさわしい所ではないようだ」と言った。
兵力は助防将1人、雉摠4人、城丁軍510人、留直軍148人、書記15人、
烽燧台2ヶ所、連隊3ヶ所による別将30人、烽軍84人、同候船1隻であった。
憲宗14年(1848)、牧師・張寅植がこれを改修したのだが、その築城の時、
凶年であったため動員された人々は飢えに耐えながら働いたという話が伝えられる。


